坂本龍馬誕生地
龍馬が生まれ育った上町。生家はもう残っていませんが、通り沿いに誕生地の碑が立ちます。近くの「龍馬の生まれたまち記念館」では、少年時代の龍馬と家族の暮らしにふれられます。
高知県のページでくわしく ›特集3 人物と旅編
幕末の風雲児・坂本龍馬。その名を知らない日本人は、ほとんどいないでしょう。
けれども、彼の「すごい業績」が、いつ、どのくらいの期間でなされたものか、ご存じでしょうか?
龍馬が長崎で亀山社中を立ち上げたのは、1865年(慶応元年)の夏ごろ。そして京都で暗殺されたのは、1867年(慶応3年)11月15日。
わずか、2年半。
たった2年半のあいだに、龍馬は日本の歴史を根底から変える仕事をやってのけたのです。
長崎の亀山に「亀山社中」を設立。薩摩藩や長崎の豪商・小曽根家の援助を受けて立ち上げた、日本初の商社ともいわれる組織です。貿易会社と政治結社を兼ね、私設の海軍としての役割も担っていました。
前年の禁門の変で「朝敵」とされ、幕府の締めつけによって武器を表立って買えなくなっていた長州藩に、薩摩藩の名義で武器や軍艦を届け、長州からは薩摩へ兵糧米を回す。いがみ合っていた薩摩と長州をつなぐ、まさに生命線となったのです。
京都の小松帯刀邸で、薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀と、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)が、龍馬の立ち会いのもとで手を結びました。犬猿の仲といわれた薩摩と長州が手を組む――これまで誰も成し得なかったことに、一介の脱藩浪士が立ち会ったのです。
木戸は、話し合った内容を6か条の手紙にまとめて龍馬に送り、龍馬はその裏に、内容に間違いがないことを朱筆で書き添えて保証しました。
もっとも、龍馬ひとりの力で成ったわけではありません。同じ土佐の中岡慎太郎らの奔走や、両藩の側のお膳立てがあったとする見方もあります。
第二次長州征討が始まると、龍馬は高杉晋作の求めに応じて、長州の軍艦「乙丑丸(ユニオン号)」を率いて小倉口の戦いに加わります。関門海峡を渡って門司・田野浦に上陸する長州軍を、海から砲撃で援護しました。
この年の1月には伏見の寺田屋で幕府の役人に襲われて手に傷を負い、春にはお龍とともに薩摩・霧島の温泉で湯治の旅をしています。その数か月後には、もう海戦の只中にいたのです。
海援隊が借りて運航していた蒸気船「いろは丸」が、瀬戸内海の六島沖で紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突し、沈没しました。
紀州藩といえば徳川御三家のひとつ。8代吉宗、14代家茂と将軍まで出した大藩です。それを相手に、「民間人の寄せ集め」といっても過言ではない海援隊を率いる龍馬は、鞆の浦で4日間にわたり談判に臨みました。
交渉は鞆では決着せず、舞台は長崎へ。土佐藩の参政・後藤象二郎の力も借り、当時の日本ではまだほとんど知られていなかった国際法「万国公法」を武器に堂々と渡り合い、最終的に紀州藩から8万3千両あまり(のちに7万両に減額)もの賠償金を勝ち取りました。
1867年6月、長崎から京都へ向かう土佐藩の船「夕顔丸」の船上で、龍馬は後藤象二郎に新しい国のかたちを説いたと伝わります。大政奉還、議会の開設、官制の改革など――これが、のちに「船中八策」と呼ばれるものです。(龍馬自筆の原本は残っておらず、内容は後世にまとめられたものとみる説もあります)
この構想に動かされた後藤が前藩主・山内容堂を説き、10月3日、土佐藩から幕府へ「大政奉還建白書」が提出されました。10月14日、将軍・徳川慶喜が政権の返上を朝廷に申し出、翌15日に朝廷がこれを受け入れます。
幕府がみずから政権を返す――武力による革命ではなく、話し合いによる政権の移譲。しかも鎌倉幕府から700年近く続いた武家の世を終わらせるという前代未聞の転換の、陰の演出家が龍馬だったのです。
大政奉還ののち、龍馬は「新政府綱領八策」を書き上げます。船中八策をさらに具体化した、いわば新しい政府の設計図です。
こちらは龍馬自筆のものが国立国会図書館などに残っており、龍馬の構想力を裏づける貴重な史料となっています。
そして同じ11月の15日、龍馬は京都・近江屋で、中岡慎太郎とともに襲われ、33歳の生涯を閉じました。
これだけのことをやってのけたこと自体が驚きですが、それがわずか2年半のあいだの出来事なのです。
貿易会社の設立、薩長同盟への立ち会い、戦争への参戦、国際法にもとづく大藩との賠償交渉、政権返上の構想、そして新政府の設計――。もちろん、多くの仲間と力を合わせ、たくさんの人の力添えがあってこそですが、その中心には、いつも一人の脱藩浪士の姿がありました。
しかも、当時の移動手段は徒歩と馬、そして船。いまなら新幹線や飛行機で数時間の距離も、当時は何日も、何日もかかりました。19歳で剣術修行のために土佐を出てから33歳で亡くなるまでの移動距離は、ある試算では約4万6000キロともいわれます。地球一周(約4万キロ)をも上回る、幕末の志士のなかでも群を抜く距離です。
長崎で亀山社中を立ち上げ、京都で薩長同盟に立ち会い、関門海峡で戦い、瀬戸内海で賠償交渉をし、ふたたび京都で新しい国の設計図を描く。神出鬼没、東奔西走――龍馬はまさに「日本をいちばん旅した男」だったのかもしれません。
龍馬が駆け抜けた足跡を、想いを馳せながら、この秋めぐってみてはいかがでしょうか。
というのも、11月15日は龍馬の誕生日であり、命日でもあるからです。
高知の生誕地から桂浜、長崎の亀山社中跡、京都の寺田屋や霊山の墓所、下関の本陣伊藤邸跡――龍馬という一人の男が、たった2年半で成し遂げた「奇跡」を、あなた自身の足でたどってみてください。
あらためて龍馬のすごさが脚に、体に刻みこまれ、これからの人生で、龍馬の足取りがきっとあなたを励ましてくれることでしょう。
| 1835 | 1歳 | 土佐・高知城下の上町に生まれる(天保6年11月15日)高知県のページ:坂本龍馬 › |
|---|---|---|
| 1853 | 19歳 | 剣術修行のため江戸へ。この年、ペリーの黒船が来航する |
| 1862 | 28歳 | 土佐藩を脱藩。同じ年、勝海舟に入門する高知県のページ:龍馬脱藩の道 › |
| 1863 | 29歳 | 福井へ赴き、越前藩から海軍塾の資金を借りる福井県のページ:由利公正 › |
| 1864 | 30歳 | 勝海舟が神戸海軍操練所を開く。龍馬は勝の私塾で学ぶ(塾頭をつとめたとも)兵庫県のページ:神戸海軍操練所 › |
| 1865 | 31歳 | 長崎で亀山社中を設立長崎県のページ:亀山社中 › |
| 1866 | 32歳 | 薩長同盟/寺田屋で襲われる/お龍と霧島へ/小倉戦争宮崎県のページ:天の逆鉾 › |
| 1867 | 33歳 | 海援隊の隊長に/いろは丸事件/大政奉還/近江屋で遭難京都府のページ:龍馬の墓 › |
※年齢は数え年。月日は旧暦です。
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鹿児島県のページでくわしく ›※年代・事実関係は、各自治体や施設の公式サイト、国立国会図書館の資料などで確認しました。龍馬の事績には諸説あるものも含まれます。見学先の公開状況は変わることがあるため、お出かけ前に公式サイトでご確認ください。