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特集2 人物と思想編

「もののあはれ」―日本人にしかない感性

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『令和版 本居宣長の不思議』表紙。本居宣長の肖像と桜、赤い文机
●「本居宣長記念館」資料

「もののあはれ」――それは、いにしえから日本人が大切にしてきた、ほかのどこにもない独特の感性です。

この言葉に光を当て、日本人の心の核として説き明かしたのが、江戸時代の国学者・本居宣長でした。

01いにしえの「やまと心」をたずねて

本居宣長(1730〜1801)は、伊勢国松坂(いまの三重県松阪市)の木綿商の家に生まれました。

宣長が追い求めたのは、儒教や仏教が伝わる前、いにしえのやまとの国の人々は、どのような心で生きていたのか――という問いでした。

その謎を解く重要な鍵として、宣長が目をつけたのが『古事記』です。

02誰も読めなくなっていた『古事記』

いまでこそ『古事記』は現代語訳で気軽に読めますが、宣長の時代には、正しく読める人はほとんどいなくなっていました。

712年にまとめられた『古事記』は、日本人が口で語り継いできた「やまとことば」を書き留めようと、漢字の意味(訓)と音を組み合わせて書かれています。歌や神々の名などは、漢字の音だけを当てる「万葉仮名」で記されました。

まだ仮名のない時代の、手探りの書き方です。そのうえ、国の正式な歴史書として重んじられたのは、漢文で書かれた『日本書紀』のほうでした。こうして『古事記』は、時代が下るにつれて、どう読むのかさえわからない書物になっていったのです。

長いあいだ日の目を見なかった『古事記』に、ふたたび光を当てたのが宣長でした。

0335年をかけた『古事記伝』

宣長は1764年(明和元年)ごろから本格的に『古事記』の研究に取りかかり、1798年(寛政10年)、全44巻の注釈書『古事記伝』をたったひとりで書き上げました。じつに35年におよぶ仕事です。

『古事記伝』は、ただの現代語訳ではありません。一つひとつの言葉を、ありとあらゆる角度から調べあげ、検証した、いわば「『古事記』専用の広辞苑」のような書物です。

『古事記』の原本はすでに失われ、伝わっていたのは書き写された写本だけ。写本を見せてもらうだけでもひと苦労の時代に、宣長は手に入るかぎりの写本を集め、一字一字くらべていきました。

「この字は、この写本とこの写本にしか使われておらず、それより古い写本には見えない。おそらく書き写すときの誤りだろう」――そんな検証を、気の遠くなるほど細かく積み重ねていったのです。

04松坂の一夜

宣長が『古事記』研究へ踏み出すきっかけとなったのが、当時名高い国学者・賀茂真淵との出会いです。

1763年(宝暦13年)、江戸の真淵が伊勢参りの旅の途中で松坂に泊まったと聞いた宣長は、急いで宿へ駆けつけました。けれども、時すでに遅し。真淵は発ったあとでした。

伊勢神宮へ向かったのは明らか。帰りにもきっと松坂に立ち寄るにちがいない――宣長はそう信じて待ちました。

思ったとおり、真淵は帰り道に、ふたたび松坂の宿「新上屋」に泊まります。5月25日の夜、宣長はついに真淵を訪ね、対面を果たしました。真淵67歳、宣長34歳のときでした。

国学は、契沖・荷田春満・賀茂真淵と、おもに『万葉集』の研究によって受け継がれてきました。そのなかで宣長は、「自分は『古事記』を研究したい」と打ち明けます。

真淵もまた、『古事記』を解き明かしたい思いはやまやまでした。しかし自分はもう老いてしまった。まずは『万葉集』で古い言葉をしっかり学び、そのうえで若いあなたが取り組みなさい――そう言って、夢を宣長に託したと伝わります。

宣長は翌年の正月、正式に真淵の門人となりました。以後、師弟のやりとりは手紙で続き、1769年に真淵が亡くなるまで生涯途切れることはありませんでした。ふたりが顔を合わせたのは、後にも先にもこの一夜だけだったといわれます。

これが、いまも語り継がれる「松坂の一夜」です。

05宣長が見いだした「もののあはれ」

「もののあはれ」という言葉そのものは、平安時代の物語や日記にも見られます。宣長はこれを、日本人の心のいちばん深いところにある感性として、はじめて正面から説き明かしました。

松坂の一夜と同じ1763年、宣長は『源氏物語』を論じた『紫文要領』や、和歌を論じた『石上私淑言』を書き、物語や和歌の本質は「もののあはれを知る」ことにある、と説いています。

「もののあはれ」とは、自然の風景や季節の移ろい、人の喜びや悲しみ――見るもの、聞くものにふれて心が動かされ、しみじみと感じ入る心のこと。善し悪しや教えで割り切るのではなく、心が動くままに深く味わう心です。

そして宣長は、和歌や物語から『古事記』へとさかのぼり、儒教や仏教が伝わる前の、ありのままの日本人の心を、35年をかけてたずねていきました。『古事記伝』を書き上げた3年後の1801年、宣長は72歳でこの世を去ります。

宣長がいなければ、私たちはいまも『古事記』を読めず、そこに何が書かれているのかもわからないままだったかもしれません。

06日本人の「心」をたずねる旅へ

ニッポン総覧は、日本列島の津々浦々から、「文化」「歴史」「自然」を中心に、「日本」という固有の「文明」の姿を浮き彫りにしたい、という思いで作りました。

日本人の「心」を明らかにし、再発見した偉大な学者、本居宣長。

興味がわいたら、「国学」を軸に、日本人の「心」が見いだされていった道のりをたどる旅に出てみませんか。

和歌を読むとき、昔の人々の暮らしにふれるとき、その情感はきっと、深くあなたの心に刻まれ、これからの人生をいっそう豊かに彩ってくれるはずです。

国学の流れKOKUGAKU

契沖→荷田春満→賀茂真淵→本居宣長→平田篤胤

国学とは、『古事記』『日本書紀』『万葉集』『源氏物語』などの日本の古典を、言葉に即して実証的に読み解き、儒教や仏教が伝わる前の、日本固有の心や文化を明らかにしようとした江戸時代の学問です。17世紀後半の契沖に始まり、荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤へと受け継がれました。このうち春満・真淵・宣長・篤胤の4人は「国学の四大人(しうし)」と呼ばれます。その思想は、幕末の尊王思想にも大きな影響を与えました。

契沖けいちゅう
1640〜1701 摂津国尼崎(兵庫県)生まれ

真言宗の僧。水戸藩主・徳川光圀の依頼で『万葉集』の注釈書『万葉代匠記』を著し、古い文献をくらべて確かめる実証的な方法を切りひらきました。国学の祖とされます。

荷田春満かだのあずままろ
1669〜1736 山城国伏見(京都府)生まれ

伏見稲荷の神職の家に生まれ、古典や古い制度を研究しました。国学の学校をつくるよう幕府に願い出たと伝わります。賀茂真淵の師です。

賀茂真淵かものまぶち
1697〜1769 遠江国浜松(静岡県)生まれ

京都で荷田春満に学び、のちに江戸で田安宗武に仕えました。『万葉集』を通して、いにしえの素朴でおおらかな心(ますらをぶり)を説き、宣長に『古事記』研究を託しました。

本居宣長もとおりのりなが
1730〜1801 伊勢国松坂(三重県)生まれ

35年をかけて『古事記伝』44巻を完成させ、国学を大成しました。『源氏物語』や和歌の研究から「もののあはれ」を説き、日本人の心のありようを明らかにしました。

平田篤胤ひらたあつたね
1776〜1843 出羽国久保田(秋田県)生まれ

宣長の没後にその門人を名乗り(没後の門人)、国学を信仰の面へ広げた「復古神道」を唱えました。その教えは各地に広まり、幕末の尊王攘夷運動や明治維新にも影響を与えました。

ゆかりの地をたずねる

PLACES
大阪

契沖旧庵(円珠庵)跡・墓

大阪市天王寺区

契沖が晩年を過ごした庵の跡。国学のはじまりの地です。

見学先契沖旧庵(円珠庵)跡・墓
大阪府大阪市天王寺区空清町4-2
※庵跡・墓は非公開。外観のみ
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京都

東丸神社・荷田春満旧宅

京都市伏見区

伏見稲荷大社の楼門脇に、春満をまつる東丸神社と、国の史跡の旧宅が並びます。学問の神として受験生も訪れます。

見学先東丸神社・荷田春満旧宅(国史跡)
京都府京都市伏見区深草藪之内町36
※伏見稲荷大社の楼門脇
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静岡

浜松市立賀茂真淵記念館

浜松市中央区

真淵の生まれ故郷・浜松にある記念館。真淵の書や著作などを伝えます。

見学先浜松市立賀茂真淵記念館
静岡県浜松市中央区東伊場1-22-2
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三重

本居宣長記念館・本居宣長旧宅(鈴屋)

松阪市

宣長の自筆稿本など、膨大な資料を収める記念館。隣には、宣長が『古事記伝』を書いた書斎「鈴屋」のある旧宅が移されています。

見学先本居宣長記念館・本居宣長旧宅(鈴屋)
三重県松阪市殿町1536-7
※旧宅は記念館の隣。共通券
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三重

新上屋跡

松阪市

「松坂の一夜」の舞台となった宿の跡。いまは石碑が、師弟ただ一度の出会いを伝えています。

見学先新上屋跡
三重県松阪市日野町789
※跡地に石碑が立つ
秋田

平田篤胤墓・彌高神社

秋田市

故郷・秋田に眠る篤胤の墓は国の史跡。千秋公園の彌高神社には、篤胤と佐藤信淵がまつられています。

見学先彌高神社
秋田県秋田市千秋公園1-16
※千秋公園内
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※年代・事実関係は、本居宣長記念館の公式サイトなどで確認しました。見学先の公開状況は変わることがあるため、お出かけ前に公式サイトでご確認ください。